ムハンマド・アリーの生涯
ムハンマド・アリーは、マケドニア地方の東部の港町カヴァラ(現ギリシャ領テッサロニキ近郊)で下級軍人の家庭に生まれた。民族的な出自はアルバニア系ともトルコ系ともイラン系ともクルド系とも言われるが、アルバニア系とする見解が主流である。
父のイブラヒム・アーはカヴァラ市長官に仕える非正規部隊の司令官に就くかたわらで、タバコ取引に従事する商人でもあった。幼いころに父を失ったムハンマド・アリーは、父の主君である市長官のもとに預けられて成長し、18歳のとき主君の親戚の女性と結婚して父の職を引き継いだ。
ムハンマド・アリーの独特の国際感覚は、このカヴァラで過ごした青年時代に多くの民族、外国人の商人たちと交渉を積む中で培われたと言われる。
エジプト上陸
1798年にナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍がエジプト遠征を開始すると、エジプトの宗主国であるオスマン帝国は、フランス軍との戦いのためにバルカン半島方面から軍隊を派遣したが、その一部としてアルバニア人非正規軍が編成された。このとき、カヴァラ市でも長官によっておよそ300人のアルバニア人非正規兵が集められ、長官の子息が隊長、ムハンマド・アリーが副隊長に任命されてエジプトに派遣された。
カヴァラ市のアルバニア人部隊はオスマン帝国軍の一翼としてエジプトに上陸しようとしたが、最初の上陸作戦はフランス軍に阻まれて失敗に終わり、これに怖気づいた隊長がカヴァラに帰国してしまった。
かわってカヴァラ市のアルバニア人部隊の隊長となったムハンマド・アリーは、優れた軍才と政治能力を発揮してたちまちオスマン帝国軍の間で頭角を現していった。フランス軍の撤退した1801年には、彼は全アルバニア人非正規軍の副司令官にのぼっていた。
ムハンマド・アリーがエジプトで着々と改革を進めていた頃、アラビア半島の内陸部ナジュド地方では第一次サウード王国がイスラム教の改革思想であるワッハーブ主義を掲げて勢力を拡大しつつあった。オスマン帝国は、ワッハーブ運動の拡大を防ぐためサウード王国と戦う必要に迫られたが、軍事的な衰退著しく、独力でワッハーブ運動を鎮圧する力をもたなかったので、ムハンマド・アリーに応援を要請した。
1818年、ムハンマド・アリーの長男イブラーヒーム率いるエジプト軍はアラビア半島に進軍し、ワッハーブ軍を打ち破ってサウード王国を滅亡に追いやった。これに自信を得たムハンマド・アリーは1820年から積極的な拡大政策を取り、ナイル川上流のスーダンに進出してその北部を版図に加えた。
これと同じ頃、1821年に勃発したギリシャ独立戦争でもギリシャ軍を独力で鎮圧できないオスマン帝国の求めに応じ、ギリシャに派兵する。しかしこの戦いではイギリス、フランス、ロシアがギリシャ側に参戦し、1827年のナヴァリノの海戦でオスマン・エジプト連合艦隊が大敗を喫するなど大きな犠牲を払った末に失敗に終わった。
『ウィキペディア(Wikipedia)』引用
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